色相と洋服、工業とモダンのオートクチュール
色相は赤、黄、緑、青といった色の様相の相違である。特定の波長が際立っていることによる変化であり、際立った波長の範囲によって、定性的に記述できる。ただし、常に同じ波長が同じ色に見える訳ではない。この総体を順序立てて円環にして並べたものを色相環(hue circle)と言う。
日本においての洋服の大量生産は、記録に残る限りこれが初だとされる。また、断髪令により髪型も従来の髷から散切り頭となった。その後しばらくは、小規模ながらも各地に洋服の貸し出し店や洋服販売店ができるようになり、1871年に陸軍や官僚の制服を西洋風に改めることを定めた天皇の勅諭(太政官布告399号「爾今禮服ニハ洋服ヲ採用ス」)が発せられた以後、警官・鉄道員・教員などが順次服装を西洋化することになる。1923年の関東大震災では、身体の動作を妨げる構造である和服を着用していた女性の被害が多かったことから、翌1924年に「東京婦人子供服組合」が発足し、女性の服装にも西洋化が進むことになる。1927年9月21日には、当時の銀座三越において日本国内初のファッションショーが開催される。これは一般からデザインを募ったファッションショーでもあった。また、日本橋にあった「白木屋」デパート(旧・東急百貨店日本橋店の前身、昔発生した大規模火災で、やはり和装の人々に被害が多かったことも相まって、従業員の服装を西洋式に改める百貨店が増加し、更にそれにならう形で、大衆の服装の洋式化も徐々に広まっていった。
「インダストリアルデザイン」という語は、1920年代のアメリカで使われ始めたといわれる。もともとは設計と意匠形状の設計は技術者が共に手掛けていた。レイモンド・ローウィらの活動により1920年代末から1930年代には、デザインの優劣が製品の売り上げさえ左右することが次第に認識されるようになった。インダストリアルデザイナーは大量生産・大量消費の時代を迎え、短期間のモデルチェンジなど、市場の倫理や要望を消化し反映するという必要から出現した職業である。当初は美術家、建築家、工芸家などが顧客である企業の委託を受けプロジェクト単位で関わることもあった。その後、この職能の必要性から、大学において専門教育をするようになり、企業内にデザイン部署を創設する動きと連動して発展した。日本では企業内に所属するデザイナー(インハウス・デザイナー)が多く、海外においては(企業で大量に雇用する傾向に無い事から)フリーランスの割合が多い。
第一次世界大戦を境に、装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになると、アール・デコへの移行が起き、アール・ヌーヴォーは世紀末の退廃的なデザインだとして美術史上もほとんど顧みられなくなった。しかし、1960年代のアメリカでアール・ヌーヴォーのリバイバルが起こって以降、その豊かな装飾性、個性的な造形の再評価が進んでおり、新古典主義とモダニズムの架け橋と考えられるようになった。ブリュッセルやリガ歴史地区のアール・ヌーヴォー建築群は世界遺産に指定されている。
フランス語で「特注の仕立て服」のこと。いわゆるオーダーメイドであるが、ファッション業界内では通常、「サンディカ」と呼ばれるパリの高級服専門の組合に所属している店の商品のことをいう。また、パリとローマで1月と7月に開催されている「オートクチュール・コレクション」は、サンディカに所属するメンバーと、その他の少数のメゾンにしか発表が許されていないファッションショーである。