環境と工業、グラフィック・アートと美術の色
環境デザインは、人間が作り出した環境と、使用者である人間との関係性に立脚した計画、計画行為と解釈され、人と人を取り巻く自然、人と人の関係が含まれる。その認知には環境によって影響を受けるアフォーダンス(affordance)の概念がある。したがって、高速道路建設や河川整備など社会資本整備そのものなどについては、環境デザインという名称は用いられない。官公庁等が文化財跡地や公園緑地等を整備する際の事業名称においては「環境整備」などの名称が、「環境復元」が、国立公園等の整備は「森林保全」「森林保護」など、農業土木分野では「農村環境整備」「農村風景整備」等の名称が用いられ、デザインという語は表出しない。
「インダストリアルデザイン」という語は、1920年代のアメリカで使われ始めたといわれる。もともとは設計と意匠形状の設計は技術者が共に手掛けていた。レイモンド・ローウィらの活動により1920年代末から1930年代には、デザインの優劣が製品の売り上げさえ左右することが次第に認識されるようになった。インダストリアルデザイナーは大量生産・大量消費の時代を迎え、短期間のモデルチェンジなど、市場の倫理や要望を消化し反映するという必要から出現した職業である。当初は美術家、建築家、工芸家などが顧客である企業の委託を受けプロジェクト単位で関わることもあった。その後、この職能の必要性から、大学において専門教育をするようになり、企業内にデザイン部署を創設する動きと連動して発展した。日本では企業内に所属するデザイナー(インハウス・デザイナー)が多く、海外においては(企業で大量に雇用する傾向に無い事から)フリーランスの割合が多い。
本の表紙から雑誌の挿絵まで、宣伝ポスターから装飾パネルまで、新聞のタイポグラフィから絵はがきまで、ありとあらゆるところにアール・ヌーヴォーはその足跡を残した。グラフィックデザインやイラストレーションに属するこれらの領域に専心した数多くの者たちの中でも、最も大きな影響力があったのは間違いなくチェコのアルフォンス・ミュシャであり、1895年1月1日にパリの街頭に貼り出されたヴィクトリアン・サルドゥの演劇『Gismonda』のポスターは一夜にしてセンセーションを巻き起こした。これらの作品は、ほとんどの場合で女性を中央に据え、自然の要素からなるアラベスクで取り囲んだ繊細なデザインで世界的な評判を獲得した。主に商業的な性質の作品で用いられたこのスタイルは当時のイラストレーターたちに広く模倣された。オーブリー・ビアズリーが最も独創的なアール・ヌーヴォーの芸術家の1人として挙げられる。ビアズリー独特の白黒イラストレーションは、挿画の対象に選んだ主題が不遜なもので論争を引き起こしたにも関わらず同時代人の賞賛を浴びた。その他の著名なポスター作家としてチャールズ・レニー・マッキントッシュ(アーツ・アンド・クラフツ運動の一員であった)、アンリ・プリヴァ=リヴモン、コロマン・モーザー、フランツ・フォン・シュトゥックなどが挙げられる。
こうした中で、1893年にヴィクトール・オルタがブリュッセルに建設したタッセル邸がアール・ヌーヴォー様式の最初の建築物であると見做されている。そこではヴィオレ・ル・デュクの流れを完璧に酌んで、金物、モザイク、壁画、ステンドグラスといった構造的であると同時に装飾的でもある要素を取り囲む植物的な曲線が空間のなめらかな流れと響き合っている。エクトール・ギマールによるパリ地下鉄出入口。「アール・ヌーヴォー」という言葉は1894年にベルギーの雑誌『ラール・モデルヌ』(『現代美術』、 L'Art moderne)においてアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの芸術作品を形容する言葉としてエドモン・ピカールが初めて用いた。この言葉はフランスに伝わり、1895年12月26日、パリのプロヴァンス通り22番地に美術商サミュエル・ビングの店「メゾン・ド・ラール・ヌーヴォー」(仏: Maison de l'Art Nouveau)の看板として登場した。ここではヴァン・デ・ヴェルデの他、エドヴァルド・ムンク、オーギュスト・ロダン、ルイス・カムフォート・ティファニー、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックなど、多数の象徴派とアール・ヌーヴォーの勢力下の展示が行われた。エクトール・ギマールは彼らとは別の孤独な道を行き、「ギマール様式」と呼ばれる彼独自の世界を作り出し、多作かつ隔絶した才能であったと見做されている。
一般に、色は、デザインや視覚芸術上の重要な要素であり、或る「様式」「作風」「文化」の特徴の一つに、特定の色の使用、特定の色の組み合わせ、色と結び付いた意味などが含まれている場合も多い。