原型と装飾、パリと方法の理論
パターン(英語:pattern)は、模範、手本、模様、体系などに翻訳される英単語のカナ表記。ファッションデザインにおいてはその原型をおこす型紙、もしくは原型自体を差す。繰り返し行い、誰が行っても結果に大差が無い行為について、手本のことをパターンと言う場合がある。 ただし、習字や絵、車の運転といった、常に結果が(ほぼ)異なる行為をあらかじめ見せる場合は「手本」と言うのが一般的である。
しかしながら、フランスのアール・ヌーヴォーの最も見事な総体が構成されたのはナンシーである。1870年のアルザスとモゼルの併合の後、ドイツの支配の下に留まることを望まなかった多数の併合ロレーヌ地方の住民は仏領ロレーヌに移住した。ここでアール・ヌーヴォーは地方主義要求の表明手段となった。エミール・ガレ、ドーム兄弟、ジャック・グリューバー、その他多くの芸術家がナンシー派を創始し運動の基盤を作った。1900年のパリ万国博覧会でビングは現代的な家具、タペストリー、芸術的オブジェなどを色とデザインの両面でコーディネートしたインスタレーション展示を行った。これらの完全な形で再現された装飾的なディスプレイはこの様式と非常に強く結び付いていたので、結果としてビングの店の名前「アール・ヌーヴォー」が様式全体を指すようになった。他方で彼らの真正の作品は、彼ら自身が(意図せずに)提唱者となった流行の成功によって飲み込まれ、はびこる粗製濫造の装飾品(ビングとヴァン・デ・ヴェルデの告発)はアール・ヌーヴォーの記憶を長きに亘り汚すことにもなる。
アール・ヌーヴォーはパリの無数の建物に影響を与えたのは勿論、ヴァル=ド=マルヌやエソンヌやセーヌ=サン=ドニといったパリ近郊を散歩するとよく目にする、大半が20世紀初頭に建造された珪石造の数多くの古い別荘にも非常に大きな影響を与えている。錬鉄の大胆な使用、煉瓦と陶器による装飾、切妻と時として小塔がこれらの特徴となっている。こうした郊外でフランスの建築家たちは、アカデミズムとは対照的に総体的なものであろうとしたアール・ヌーヴォーが端緒となった新しい素材と新しい様式を実験したのである。第一次世界大戦を境に、様式化が進みコスト高でもあったアール・ヌーヴォーのデザインは、流線型で直進的であり安価に製造できる、ラフで簡素で工業的な美意識に忠実であると考えられたモダニズム的なデザインへと変化して行った。アール・デコである(1920-1940)。
平面作図と立体裁断は、作図で立体のシルエットを想像しながらパターンを書く方法と、シルエットを視覚で確かめながら形を作り出すことの手法の違いである。いずれの方法も出来上がった服の形はほぼ同じ構造(パターン)であり、シルエットも同じでなくてはならない。平面作図と立体裁断を併用して服作りをするのが最も理想的なパターン作成法といえる。
アール・ヌーヴォーの理論的基礎はヴィクトリア朝時代のイギリスで、アーツ・アンド・クラフツ運動の隆起とウィリアム・モリスやジョン・ラスキンの諸論文として出現した。彼らは工業化の進行とそれによる創造性の枯渇を厭い、社会の再生は、人々の周りにあり人々が使うもののフォルムの真正性によってしか成されないのであるとして、中世のギルドの精神、自然界のモチーフの研究、洗練されたフォルムへの回帰を強く勧めた。フランスでは、この意図は多少なりともモラリスト的で、より合理的なものとなった。ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクは現代的な素材(特に鉄)を拒絶せず、中世のゴシック建築の構造と同様に逆にそれに装飾的・美的な機能を与えて誇示した。一連のネオ・ゴシック運動の先導者として知られていたにも関わらず、ヴィオレ・ル・デュクは数々のアール・ヌーヴォーの建築家にも影響を与えた。ロックタイヤード城のフレスコ画(1859)を含む彼の諸作品はネオ・ゴシック運動とアール・ヌーヴォーの血縁関係の完璧な例である。